今週のお題「思い出の先生」
小学1年の時の先生。
女の先生ですが…
口癖は「1年1組が一番下手!」
何かにつけ、けなす人でした。
僕らが気づかないような所まで、難癖をつけて。
温かく指導するというよりは、常にイライラしていて、それを生徒にぶつけるような感じ。
怒っていない時は、印象に残っていません。
淡々としていた感じでした。
褒めたことなんて、なかったんじゃないかな?
整数しか知らない1年生で、「6、□、7」って穴埋め問題を、間違えて出題したことがあって。
大部分の生徒が途方に暮れる中、誰かが「6.5」って答を出したら、
「1年生で、そんなこと知るもんじゃない!」って、半ば逆ギレ。
プライドを傷つけられたと、思ったのかも知れません。
…多分、褒められても印象に残らなかったでしょうね。
それほど、冷たくて不機嫌な印象しか、残らない人でした。
この言葉が、僕の先生像を形作ったと言ってもいいぐらい、印象に残りましたね。
強くというか、じわじわと、先生像を形作ったような。
先生と言えば、幼稚園も先生ですが、やはり学校初の先生。
第一印象としては、かなり厳しいものでした。
なので、先生に対して、特別な親近感は持っていません。
中には友達のように接したり、結婚までした人もいましたが、僕にはそういう気は全くありませんでした。
…その割には、友達には教職関係の人が、結構いるんですけどね。。。
何故なのかは、不明です…。
ちなみに…
実はこの先生、この年で先生を辞めて、結婚したそうです。
愛する人も、いたようです。
2年生は、引っ越しで転校して、別の小学校でした。
今度は男の先生。
ひょうきんな先生で、生徒には人気がありました。
そんな中で、図工の作品を評したことがあって。
図工なんて苦手で、この時も、そんなにいい出来ではなかったと思いますが…
この先生、
「おぉ~よくできた!(韓隅錦矢)くんはAだ!」
この学校は、「A・B・C」評価でした。
多分、敢えて褒めてくれたんでしょうね。
転校生だから、なじめるようにと。
この学校は2年単位のクラス替えで、2年からの転校は、既に出来上がったコミュニティーに入っていく、難しさがありました。
そんな、配慮だったと思います。
6年の先生は、
「もたもたしていると、電車に乗り遅れるよ!」が口癖でした。
ぼやぼやして、機を逃さないがための、叱咤だと思いますが、この先生の価値観だったんでしょうね。
僕自身は大学で、レールからは外れることになりましたが、今は復旧以上の人生かなって、思っています。
それも、いろいろな縁や、ラッキーもあっての、今だと思います。
自分の力だけではなくね。
そういう所も、人生の面白いところだと思っています。
中学3年の先生も、名物と言われていた先生でしたね。
生徒にも人気があったと思います。
でも、印象に残った言葉は、
「3年4組は、多くの血が流れた…」
別に、クラスが荒れていたわけではありません。
高校受験の時の、先生の感想でした。
高校受験って、大学ほど倍率が高いわけではありません。
それだけに、浪人となると、人生に与えるダメージが大きいです。
滑り止めに私立高校も受けますが、経済的に負担が大きくなりますしね。
なので、ほとんどの先生が、「確実に合格できる学校」を勧めます。
でも、この先生。
レベル的には厳しい学校でも、受けたいと申し出た子には、受けさせたんですよね。
チャレンジさせたんです。
もちろん、見事合格した子もいましたが、残念ながら上手く行かなかった子も、何人かいて。
他のクラスは、ほぼ全員が公立高校に合格していましたから、目立ったんです。
それでも、この先生はチャレンジさせたことを、自らの誇りにはしませんでした。
「立派に挑戦したんだから、胸を張れ!」なんてことは、言わなかったわけです。
人生においても、大きなチャレンジする機会はそうはなく、それを中学生という若い段階でさせたことには、今思っても、大きな意義があったと思います。
でも、それは当事者でない者の感想。
チャレンジがもたらした結果は、生徒にとっても家族にとっても、厳しいものになったと思います。
「チャレンジの代償は、こういうこともある」と、言ってしまえばそれまでですが、中学生の教え子や家族にとっては、受け入れられないほどの、大きなことだったと思うんですよね。
そんな、実際に厳しい結果を受けた子への、配慮だったと思いますし、ゴーサインを出した自らも、その結果を受け入れて、苦汁を舐めた言葉だったと。
「公立高校に合格させられなかった」という、責任をにじませた言葉だったと思います。
先生の誇りとともに、辛さや厳しさを感じさせた、心に刻まれる言葉でした。
忘れられない言葉です。
ここまでの先生は、いずれも担任だった先生です。
高校3年生で、生徒指導や野球部監督も兼務していた、体育の先生の言葉は、その後の人生にも大きく影響しました。
それは、
「結果にこだわれ」
一度も授業を受けたことがない先生でしたが、この高校で一番印象に残ったのは、この言葉でした。
そう、学生時代は、基本的には勉強を重ねた努力が、結果と同じぐらい、認められる世界でした。
内申書とかも、学習態度が重視されますしね。
一方、社会に出ると、求められるのは「結果」です。
いくら過程で頑張っても、それだけは評価されない。
「頑張ったんだけどね~」で、終わってしまいます。
いい結果を出さないと、そもそも評価の対象にならないんです。
進学校なので、多くの人が大学へ行く高校でしたが、中には就職する人もいますし、大学に行けば、アルバイトもするでしょう。
その大学だって、自ら進んでの研鑽をしないと、研究で上には行けません。
大学を卒業すれば、みんな社会へ出るわけです。
これからの世界は、「結果が全て」。
逆に言えば、「いい結果を出すには、どうしたらいいか?」という考え方、行動でなければならない。
「頑張っていれば、誰かが見てくれる」時代は、高校卒業で終わるわけです。
このことを、高校最後の卒業式で、教え諭した言葉だったと思います。
ビジネスの世界は、厳しい反面、結果が出ればうれしいし、出なければ悔しい。
そして、次の機会にはああしよう、こうしようと、工夫もします。
徐々にではありますが、そういうサイクルを身につけられたのは、根底にこの言葉があったからかなって、思います。
まぁ、うつになってから、「過程にもこだわること」を、覚えましたけどね。
「結果が全て」は、あくまで仕事上のこと。
プライベートにそれを持ち込むと、人との関係はギクシャクし、生活も上手く行きません。
プライベートは過程も重要だと再認識して、両立して今があります。
一つのことに両方を求めるんじゃなく、目的によって、どっちを重視すればいいか、選べばいいわけです。
あと、もう一つ…
「結果オーライを喜べ」も、この言葉から派生した考え方ですね。
これは仕事にも、プライベートにも通じる考えです。
以前は、他力本願で上手く言っても、何か気持ち悪くて、喜ぶ気になれなかった。
でも、「結果がよければ、それはそれで、喜んで受け入ればいいんじゃないか?」と。
こう思えるようになったのは、うつからの回復過程で、いろいろ結果が出た時期があったからでした。
他力本願でしたけどね。
それを認めないのではなく、受け入れることで、随分楽になって、次へ進むことができたと思っています。
「結果」への意識が、こうさせたのかなって、思います。
先生と関わるのは、幼稚園や大学まで入れても、多くの人が20年弱です。
でも、子供が劇的に成長を遂げて、大人になっていくのが、この時期です。
この時期、親族以外で最も近い間柄の大人って、やっぱり先生だと思うんですよね。
先生から受ける影響は、非常に大きいものがあると思いますし、僕も何人もの先生と触れあってきて、そう感じています。
血と肉になるようなね!
いろんな先生に出会えたことを、感謝しております。