(敬称略)
「兄やん」こと松沼博久も、
やっぱり、僕の中で背番号15は、この2人です。
2人とも、レリーフになってしまいましたが…
まずは、
津田恒美。
広島カープファンなら、いやそうでなくても、誰でも知る選手でしょう。
当初は先発として、後に「炎のストッパー」として、闘志溢れるピッチングを見せつけた選手です。
その印象は、当時巨人ファンの少年だった僕にも、強烈で。
強く印象に残る、選手だったのです。
その津田がある日、頭痛を訴えました。
それが実は、脳腫瘍で。
手術では取れない場所にある、悪性なものだったそうです。
病名を伏せて闘病、引退。
一時は回復するも、1993年7月に永眠。
若干32歳でした。
この時僕は、21歳。
ファンではなかったにしろ、名前を知っている人の死は、祖父母しか経験がなく。
衝撃でした。
レリーフはその16年後、広島出張の時に訪れた時に、撮ったものです。
球場は新スタジアムが完成して、当時の広島市民球場は、草野球の舞台となっていました。
そこのブルペンのあった辺りでしょうか、レリーフは飾られていました。
彼の仕事場が、大切に残されていたことに、胸が熱くなりました。
※ 現在は新球場のマツダスタジアムに、移設されているそうです。
なお、津田は背番号14で引退しています。
ただ、僕の中では売り出した頃(~1984)につけていた15の方が印象が強く、こちらに書かせていただきました。
もう一人。
こちらは「炎のセットアッパー」
藤井将雄。
ホークスがいよいよ強くなろうという、20世紀終盤。
セットアッパーとして、ブルペンの兄貴分として、大いにチームを支えた投手です。
誰からも好かれる性格。
藤井選手がいたから、当時の若い選手も、リラックスして活躍できたのでしょう。
1999年には自らも26ホールドを記録、厳しい場面を切り抜けられる、頼れる中継ぎとして、ファンの信頼も厚かった。
もちろん初優勝にも、大きく貢献しました。
翌年、マウンドで咳き込むことがあると、登録を抹消。
「間質性肺炎」として、闘病生活に入りましたが、実は既に、末期の肺がんでした。
一度は驚異の回復を見せるも、シーズン終盤には、ベッドから起き上がれない状態になっていたそう。
それでも病室から、選手を励まし続けたそうです。
チームはリーグ連覇達成。
「藤井まちゃおとともに!」と、彼に見立てたハリーホークも、宙を舞いました。
それを見届けた6日後、彼は旅立って行きました。
あの時。
8月まで3位。
8月はあまり勝てなかったと思った。
でも、確か末日の試合が、雨で流れたんじゃなかったかな?
それで息を吹き返して、9月に巻き返し!
優勝を勝ち取ったような気がします。
その頃から、藤井に見立てたハリー人形が、ベンチに座るようになって。
チームもファンも、「藤井とともに!」と、大いに一体感をわかせたんじゃないかな。
一方で、「病状、悪いの?」とも推測させて…。
そして、リーグ連覇と藤井の死。
今度は応援しているチームの選手ですから、衝撃は大きかった。
悲しみも、大きかったです…。
本当に身近に思っていた人の、死ですから。
こんな時、周りは簡単に「弔い合戦!」なんて言うけれど、奮い立たせるのが難しいほど、大きな衝撃が、悲しみが、選手もファンも包み込んだと思う。
日本一は、ならなかった。
でも、藤井投手には感謝の気持ちで、いっぱいだったと思う。
負け癖の付いたホークスが強くなるには、間違いなく必要な選手だったから。
ありがとう
これからも、見守っていてね
先ほどの写真。
ヤクオク!ドームの15番通路は、今でも「藤井将雄ゲート」です。
バックネット、若干三塁側。
彼を称えるレリーフ、そして彼が最後に残したメッセージが、刻まれています。
1年に1回行けるか行けないかのヤフオク!ドームですが、来たら必ずここを訪れて、手を合わさずにはいられないのです。