当時39歳。
就職には40まで、なんて言われていました。
あんまり焦っては、いなかったけど。
その理由の一つが、この事件。
「東日本大震災」
震災時、僕がいたのは、病院のデイケア室。
帰りの会に向けて、その日やったことをまとめていた頃でした。
ん?地震?
酷い??
あとは必死に、飛び出す引き出しを押さえていました。
どうせ帰る時間だったので、様子を見つつ、散開。
当時、草加から竹の塚の病院までは、運動も兼ねて、30分かけて自転車で通っていました。
なので、帰るには影響はなかったんですが…
その後のことは、皆さんご存知の通りです。
草加は被害という点では、大したことはありませんでした。
山が崩れるわけでもなく、橋が落ちるわけでもなく。
もちろん、津波も来ませんでした。
その後、物資は足らなくなりましたけどね。
納豆が品薄になったり。
ガソリン入れるのが大変だったり。
計画停電も、ありました。
夕方から夜の計画停電は、ろうそくを用意したり。
ただ、携帯電話はつながるってのは、発見でしたね。
基地局はバッテリーを積んでるので、すぐには電源は切れないのです。
被災地に比べれば、なかったに等しい、軽微な被害でした。
数ヶ月すると、だんだん落ち着いてきました。
僕のリワークデイケア暮らしも1年に近づき、復職する同期が出始める頃、僕も就職の気運が高まってきました。
専門の先生についてもらって、企業研究や面接などの練習もして、いくつか採用面接を受けました。
上手く行かないまでも、手応えがあった回もありました。
ある時、自分としては、言いたいことが言えた回がありました。
面接としては、一番上手くいったでしょう。
しかし、不採用。
僕自身も、予想していました。
やりとりが、かみ合わなかった。
お互いのニーズや方向性がずれていることが、その場でもわかったんです。
一方、その次に行った、障害者対象の合同就職面接会では、3社話を聞きました。
そのうちの一社は、僕自身としては、あまりうまく物事が言えなかった。
かなりやり込められた印象さえ、ありました。
その会社が、病院に帰ってすぐ、連絡をよこしたのです。
それが、今勤めている会社です。
昔、面接は「テスト」だと思っていました。
もちろん、テストの面もあるんでしょうが、わかったことは、
「面接は、お見合いなんだ」、と。
こちらがどんなに上手くやったって、相手が自分を欲しがってなければ、絶対に採用はされない。
自己評価の点数で決まることでは、ないのです。
逆に言えば、採用面接に落ちたって、面接の仕方は反省しても、それ以上に落ち込む必要なんてない。
ただ、お互いが合わなかっただけ。
だから、どんどん次の会社を探せばいいんです。
人間性を否定されたわけでは、ないのだから。
そのことに学生時代に気づいていれば、もっと人生が変わったかも知れません。
でも、こうやって回り道してつかんだ、今の職が、今まででは一番合っていると思っています。
これで、よかったのかも知れません。
就職して、軽減勤務を経て、最初は人事部付きで、勤務開始。
会社としても、精神障害者を雇うことは、経験がなかったらしくて、かなり慎重に事を運んだと、採用担当の女性課長が、語ってくれました。
メンバーはいろいろと気を使ってくれましたし、営業側の人々も、そのように接してくれました。
飲み会なんかも企画してくれたりね。
精神障害者という点の他に、しばらく職を離れていたわけでもあり、民間企業で就業経験も浅い僕でしたが、目に見えない点で、随分サポートしてもらっていたと思います。
12月。ある目標に向けて、通勤電車ではひたすら、携帯電話に向かっていました。
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