京版の「ゐ」は、
「鰯の頭も信心から」です。
“鰯”…
今は実は高級魚と言ってもいい魚ですが、ここでの「鰯の頭」は、取るに足らないつまらないもの、という意味で使われいます。
そんな“鰯の頭”でも、仮にこれを崇めるような宗教があったとしたら…。
「鰯の頭」でも、尊いものに見えてくるから、宗教とは不思議です。
意味としては、信心ということの不思議さ、尊さを表しますが、用法としては、新興宗教を皮肉っていう場合も、あるようです。
「○○観音様」とか、「○○不動様」といったものは、全国にあるようです。
浅草にある待乳山聖天には、大根をお供えしますね。
和歌山県の紀三井寺では、年最後の縁日に、大根を振る舞うそうです。
稲荷神社には油揚げをお供えするのが定番ですが、成田山新勝寺の出生なりにも、油揚げを供えて、立身出世を願います。
夏の土用では、胡瓜を食べて疫病を封じる風習もありますね。
主に真言宗の寺での風習だそうです。
世の宗教には多種多様なものがあり、偶像崇拝を禁じるものも、少なくありません。
でも、こうやってお供えという形で食物などに力を与え、その力にあやかろうというのは、一番わかりやすい、宗教の形なんじゃないかと思います。