草加市にある、今の家は、2006年ごろに再築したものです。
約18年ですね。
土地はもっと前、1977年に購入しています。
両親は家を建てましたが、たった1年で、父の怒濤の転勤生活が始まり!
綾瀬市(神奈川県)に5年半、鹿児島(姶良町)に11年半、厚木市に2年、諫早市に3年…
僕が一緒だったのは、鹿児島の途中までですが、それぞれの土地と家で、それぞれの生活をしたそうです。
どれも借家でしたが、広い家もあれば、古い家も…。
借家暮らしはやむを得ないものでしたが、いろいろな家を経験できたし、その家に合わせた生活が出来たりしました。
で、残された草加市の家は…
綾瀬に移った時点で、とっとと売る選択も、まぁあるにはあったと思います、
ただ、この時点では、あまり遠くへ行く想定はなく、転勤1回で戻って来れると踏んでいたようです。
…結果的に、ずいぶん遠く、長く離れることになりましたが…
どちらにしろ、新築1年の家を売却する決断力がある人は、相当な大物だと思います。
逆に、一度関東(厚木)へ戻ってから、すぐに長崎へ行っているので、この時点で草加に帰る見込はないと判断して、草加の家を売ってしまう選択もありました。
父もこの時点では、地方勤務の方に魅力を感じていたようです。
万が一草加に帰っても、別にその家に帰らなければならない制約も、ありませんしね。
家は既に、相当の年数が経っていました。
もちろん、上屋に金銭的な価値はもうないので、土地ごと売ることになりますが、僕らは1年しか住んでいません。
家、というか草加自体に、そこまでの愛着を感じていなかったようです。
こういう場合は、両極端な対応になりがちです。
処分してしまう選択肢もあったと思いますが、ウチの場合は関心が低く、そのまま放置したようです。
また、ずいぶん前から会社を通じて、貸家として人に貸していましたから、この時点では借家人もいました。
ただ空き家にしていれば、固定資産税だけがかかりますから、当然の運用と思います。
もちろん、ウチが住むなら明け渡しを求められることは、契約に入っていましたが、この時点では借家人を追い出してまで、売ろうとは思わなかったようです。
でも、この転勤生活は2000年で終わりを告げ。
以後は父も遠くへの転勤はなくなり、関東に住めることになりました。
3回目の、売るか否かの選択の時がやってきます…
この時も、僕は別居の一人暮らしで、直接相談に乗ったわけではありませんが、関東に帰ってきた時、再び草加の家に住むのか、それとも売却するのか、両親は非常に悩んだそう。
というのも、草加の家は相当古くなり、荒れ果ててもいたのです。
ただでさえ、当時で築20年を超えます。
その大半は貸家で、期間も長いですから、何家族かに貸したそうです。
でも中には、煙草を吸う人もいれば、ペットを飼っていた家族もいたりで、家は両親のイメージ以上に、汚れていたそう。
かつて住んだ草加の持ち家といえども、家としての魅力は、かなり低くなっていたんです。
とりあえず、住むに耐えうるリフォームはしましたが、このままここに住むか、新しい場所への足しにするか、両方視野に入っていたそうです。
仮にこのまま住むにしても、建て直しが必要で、それなら売ってしまっても、費用や手間的に、あまり変わらなかったのです。
実際、新しい家も見に行ったそう。
各地の分譲予定地とか、回ったそうで、将来を見据えて、介護を付けられる家とかまで、検討していたそうです。
父は富士山の見える、裾野に住みたいという希望があったそうですし(寒いですが)、北関東へ行って、もっと広い土地と、ゆったりとした間取りを手に入れる選択もあったようです。
また、この22年の間に、生活はずいぶん変わりました。
それまで都市生活しか知らなかったのを、鹿児島に行ったことで、車に慣れることになり。
かつては縁がなかった車も、買い物などの街乗りにも、気軽に使うようになりました。
また、鹿児島では広い土地を活かして、畑の作業が両親の趣味になっていました。
川があったので、水も汲めましたしね!
家としても、綾瀬では古い家、厚木ではマンション、諫早では寒くて湿気の多い土地でしたが、立地も含めると、どこも一長一短があり。
住むことに関して、様々な経験を積んだんです。
僕と弟が独り立ちしたことで、劇的な家族増加の見込がなくなったのも、大きな要素でしょう。
制約があるとすれば、父の通勤ぐらい。
その範囲で、場所、形態、規模を、かなり自由に選べたと思います。
もちろん、移るなら家を売る選択になりました。
どっちにしても取り壊すなら、建て直しても手放しても、よかったわけです。
まぁ実際は、売るとしても土地代のみですが、金額的には郊外に土地付きで住宅を買うのは、十分可能でした。
また、もう少し待てば、地域の区画整理が完全に終わり、いろんな制約がなくなる条件でもありました。
で、いろいろ検討した、両親の決断は…
「今ある家を取り壊して、改めて注文住宅を建てる」
でした。
売る選択は、取りませんでした。
理由は、大きいのが3つ。
実は、区画整理の関係で、車1台分ながら、土地を増やすことができたんです。
わずかではありますが、自宅に車を置けるのは、大きなメリットで。
駐車場代もありますが、父は頻繁にゴルフに行っていたので、ゴルフバッグの積み下ろしが自宅で出来るのは、大きいのです。
駅までは遠いので、雨が降ると、誰かが車で送迎しますが、これも自宅前で乗れるのは大きい。
車の回送したり、傘を差して駐車場から行き来する必要がありません。
そういう点では、かつてはなかった車を置きつつ、今までと同じぐらいの家に、建て直すことが可能になったんです。
二つ目は、「父の故郷・南魚沼市まで、高速1本で行ける」こと。
実は、ウチらが草加を離れている間に、東京外環道が開通していて。
近くに出来た草加インターから、大泉ジャンクションを経て、関越道に乗れるルートが確立していたんです。
東京外環道は、規格としては、ほぼ普通の高速道路と同じ。
都心環状線はもちろん、一つ外側の圏央道に比べても、遙かに走りやすい道路です。
関越道に入るのにも、ジャンクション分岐は1ヶ所しかありません。
走る上で、かなり難易度が低いルートなんです。
父は40代だった鹿児島在住時から、本格的に車に乗り出しましたが、走ったのは、あくまで地方の道路。
首都高の都心環状線のような、複雑怪奇な道を一人で運転するのは、不安があったそう。
比較的走りやすい高速道路で、いざとなればすぐに故郷に帰れるのは、父としては非常に大きな安心感だったそうです。
この時点で、両親は草加に残ることを考え出したそうですが、それなら建て直しが前提で。
例えば2階にもトイレが欲しいですし、階段も手すりぐらいは欲しい。
床暖房、高気密、IH、…
となると、今ある家を潰し、一時的に転居もしなければなりません。
入れ替え、住み替えが発生するので、引っ越しは2回必要です。
ある意味、新しく移るよりも、手間なんですよね。
引っ越しの大変さは、身に染みてますしね。
短期間なので、全てじゃないにしても、全部梱包して、移って、また解いてを繰り返すのは非常に大変で、手間のかかる作業です。
ただ、それをもひっくり返した、3つ目の理由がこちら。
「近所の人が、ほとんど変わらなかった」ことだそうです。
毎日のように、顔を合わせる人たちですね!
この町会は、当時の新しい分譲地でした。
みんな、どこかからか移ってきた人です。
みんな手探りで、近所の人との人間関係を構築したんでしょう。
たぶん、そんな手探りな所が、かえって共通項になったんでしょうね。
近所付き合いは、かなり上手くいっていたんだそうです。
たった1年ではありましたが、ウチの家族にとっては、非常に大きな1年だったんです。
今思えば。
そのご近所さんが、ほとんど欠けずに残っていてくれた。
両親にとって、これほどの安心感はなかったそうですよ。
今まで移住を繰り返して、その都度、人間関係を作り直してきました。
もちろん、親密になって、今でも親交がある人もいるんですが、ご近所さんと上手くやっていく難しさを知っていたからこそ、最後にはご近所さんが決め手になったんだと思います。
家を建て直してから、もう18年です。
そのご近所さんとは、今もいい関係が続いていますよ。
緩い関係ですが、それぐらいがお互い楽で、長続きするんだと思いますよ。
そして…
近い将来、この家は売ることになると思います。
ようやく、今回のテーマですね。
恐らく、災害で損傷でもしない限り、僕らの都合でさらに建て直すことは、ないと思います。
もう両親も80を超える高齢ですし、僕は50代ですが、これ以上家族が増える見込はありません。
順番で行けば、最後は僕一人になるでしょう。
僕一人なら、アパートかマンションで十分です。
ガーデニングとかも、僕はあまり興味がありませんし、僕一人なら、乗り物も自転車があればいいです。
一時的に車が必要なら、カーシェアで借りる選択になるでしょうね。
この家は、オーバースペックになるわけです。
家だけでなく、土地もこんなには要らなくなるのです。
その時は、誰かに売ることになるでしょうね。
不動産屋さんを介して。
僕としては、買うのが誰なのか、どうやって使うのかには、特に興味を持ちません。
僕が支配するのは、僕らが所有している間のみ。
あとは買った人が、好きなように活かしてくれれば、いいと思います。
まぁ、そんなに広大な土地ではありませんけどね。
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