ずっと昔の職場で、野球に駆り出されたことがあります。
草野球です。
守備は外野だったかな?
ラインドライブがかかった打球に一生懸命走ったら、なんとグラブに入ってくれた!!
喝采されたけど、捕るのが注目されるようじゃねぇ…。
3割は打率じゃなくて、守備率です…。
打撃ですか?
輝かしい記録、作りましたよ!
「4連続ピッチャーゴロ」!!
もう二度と、呼ばれませんでした…。
でも、惜しかったなぁ…。
5打席目はちょっと力が入って、セカンドゴロでした…
「イロハ」の「ロ」。
当時の二等車、繰り上がって一等車を経て、現在のグリーン車の記号です。
三等級制の頃は、青帯が巻かれていました。
この車両は寝台車ですから、二等寝台車「ロネ」ですね。
現在はA寝台車が「ロネ」ですが、もう残りがわずかになりました。
初めてグリーン車に乗ったのは、子供の頃。
確か、「あさま」(「白山」?)の指定が取れなくて、仕方なくグリーン車に乗ったんだと思います。
足置きがあったのが、物珍しかったのを覚えています。
最近ではたまにですが、普通車のグリーン車には乗ることも。
Suicaで簡単に乗れるようになりました。
シートは、特急の普通車並みですね。
特急のグリーンとなると、なかなかお高いものではありますが、鉄道を趣味にしてると、あえて乗ることも。
上質のサービスを体感!
最近乗った、特急のグリーン車、2本!
787系「きりしま」
この車両は普通車だけど、一番後ろがグリーン車!
クロハ786-6号車。
JR九州は比較的グリーン料金が安く、多くの人に乗ってもらおうって方針だったようです。
グリーン車の乗車率は、高かったですね。
こんな感じの、席でした。
広くて、楽ですね♪
もう一本は、今はなき381系の「くろしお」!
クロ380-4号車。
パノラマ形グリーン車です♪
こちらも、一人掛け♪
前面展望は、2人掛けの右サイドの方が、いいですね。
こんな車両にも乗りました。
スロフ12-102号車。
最近、「ばんえつ物語号」は、最後尾7号車がグリーン車になりましてね。
車端部のパノラマ部分はグリーン券がないと、入れなくなりました。
(1号車は子供向けのフリースペース)
座席はこんな感じ。
快速扱いですから、グリーン券はそれほど高くありません。
その割にはシートは、豪華かも。
この時は荷物が多く、周りに迷惑にならないようにってんで、グリーンを取ったんですが、予想以上に快適でしたね。
最後に、こちら。
写真は残っていないんですけど。こんなグッズが残っていました。…
今や高嶺の花、「サンライズ出雲」シャワーカード。
B寝台客は車掌から買うんですが…
A寝台客には1枚、無料で配られるんですよ!
A個室は、サロハネ285形車に設置されていました。
さながらビジネスホテル並みの空間があって、当時は他ではなかった、衛星放送が受信できました。
トンネルでは途絶えてしまいますが、先進的なサービスを実感できましたよ!
昔は多少間隔が広くて、足置きがある程度。
JRになって、サービスを競う時代もありましたが、今は落ち着いてるような気がします。
客が求めるサービスが変わってきたことも、あるでしょう。
ただ、追加料金を取るのであれば、それなりのサービス、わくわく感が得られる車両に、して頂きたいものです。
押上2本、が来たときは…
そのまま乗っちゃって、終点の押上駅で出題することが多いです。
結構、出しやすいスポットが多いんですよ。
リンゴの自動販売機!
四択、たまに限定品を加えて、五択!
構内にはローソンもあるし、改札を出ると、ガチャポンコーナーもあります。
「Gacha Station」なんて、名前までついてる!
構内に戻って…
「メトロの缶詰in押上」は、東京メトロのグッズショップ!
最近はキャンペーンとかで、平日も開いてます。
お店の商品で出したこともありますし、閉店後用にある、自販機を使ったこともありますが…、
一番多いのは…
ガチャポン4本!!
東京メトロのは最近になって、ようやく半蔵門線のが出ましてね♪
遠くに思いを馳せたい時は、新幹線!
東武は色では被って出題できないので、路線名で出すことが多いかな?
で、今日使ったのは…
東急電鉄。
実は色でも出題できないし、走る路線もダブってるので、路線名でも出題できない、難関!
なので、各車両に勝手に命名!!
本当は「ペコちゃん」とか、「いもむし」とか、正式な?愛称があるけど、昔、玉電を走ってたから、『タマでん』!
無骨とか鋲平とか付けてたけど、旧性能車なので、『旧介』!
モーター音が大きい電車なので、「騒々くん」とか付けてました。
スマートな主力車両なんで、「スマートライナー」とか「横目」とかにしてたかな?
目黒線、田園都市線、東横線に使われてるので、今日は『目田横』
大井町線の車両なので、「おおいまちん」とか、「お~い町子さん♪」とか遊んでたら、結構ウケて。
今日もその路線で、『おい!待ちん!』
ネーミングのセンスはともかく!!
こんな風に遊ぶのは楽しいんですが、頭をひねってるうちに、東武への直通が1本出て、2本出て…。
…終電逃したことは、ないけどね。。。
当時31歳。
前年から低下していた精神状態は、さらに悪化していました。
常に、自分を呪っていたと思います。
ダメなヤツ、死ぬべきだと。
自殺方法なんかも、本気で考え始めて…。
最悪でした。
寝て過ごす休日も多かったし、知らず知らず、酒も増えました。
それでも、勤務は休まずにいました。
ここで、思いも寄らなかったことが起こります。
「転勤+昇進」
中規模局への異動でした。
とは言え、慣れた環境から知り合いが誰もいない局へ、しかもなったことのない役職までついて。
既に相当なうつ状態だった僕には、とても耐えられる変化ではなかったんです。
「昇進うつ」って、本当にあるんですよ。
しかも表向きは喜ばしいことだから、なおさら…。
「転勤」、「昇進」、「うつ」
どれか一つでもなかったらと、今でも思います。
休み明け、だったかな?
どうにも窮してしまって、夜も眠れず、押し寄せてくる自責の念。
退職して、そのまま死のうと、決意しました。
でもその前に、一度だけ局に電話してみよう…
電話は…、出ない…。
これで、覚悟しました。
この後は、破滅に向かって一直線。
結果は…
まぁ、コレ書いてますからね…。
キズ一つ、付けられず。
人間、そう簡単には死ねないのです。
ただ、両親が駆けつけるのが、あと1時間遅かったら、夜空の星を取りに、帰らぬ旅に出ていたかも知れません。
ちなみに、電話に出なかった局には、何の落ち度もありません。
後からわかったんですが…
かけた電話番号が、間違っていたのです。
結局、このまま退職となりました。
懲戒を、って申し出ようとも思いましたが、自己都合退職にしてくれて。
退職金はいただけました。
一人暮らしの湯河原も、引き払い。
草加にある、実家に引き取られることになりました。
しばらく、放心してましたね。
16時間も寝たり。
精神病院も通ったけど、あんまり熱心じゃなかった。
とにかく「自分を罰したい」
こんな感情が、僕を支配していました。
今、これを書いている“今の僕”も、結構うつがキツく出ていて、頓服のお世話になったりしてます。
でも、書いててわかりますが、今よりあの頃の方が、ずっとツラい。
今は当時に比べて、よい医者もいるし、効く薬もある。
職場のサポート体制もある。
僕自信も知識がついたし、自分なりの経験もした。
そして何より、
「一人じゃない」
これが、大きいのです。
恋人や奥さんでは、ないけれど…。
最悪の事態が起こるのは、いくつもの悪い要素が、すべて重なったとき。
一つでも手当てすれば、最悪の事態など、そうは起きないのです。
でも、そのことに気づくのは、もっとずっと後のことになります。
次の年は、こちら
kiha-gojusan-hyakusan.hatenablog.jp
貨車に付く記号です。
冷蔵車。
主に鮮魚などを運ぶ車両です。
冷蔵車にも色々ありまして、一番強力なのは、冷蔵装置を積んでる車両ですが、日本では確か、実用化されなかったんじゃないかな?
給電(燃料供給)の問題もありますしね。
多かったのは、「氷槽」という氷(保冷剤)を入れる場所があって、その力で、断熱された荷室を保冷しながら運ぶタイプ。
「レサ」を使った高速貨物列車も、あったそうですよ。
ただ実際、使われたのは断熱機能だけで、氷槽自体も申し訳程度にしか使われなかった、という例も、少なくなかったようです。
というのも、日本の鮮魚輸送は、発泡スチロール製の容器に、魚を氷ごと入れて運ぶ方が多かったためです。
この方式ならば、容器の中は断熱されていますので、貨車は極端に暑くならなければいい、ということになります。
冷蔵車が存在したのは、1986年まで。
もともと、鉄道による鮮魚輸送には「着地留置」という制度があり、貨車が駅に着いてからも、荷下ろしせずにしばらく置いておくことができました。
貨車を側線に押し込んどけば、いいわけです。
時には着地に着く前に、行き先を変更することさえできたそうです。
荷主は市場の状況を見ての配送が可能で、特に着地留置は、トラックにはできない芸当でした。
しかし、それでもトラックに押されるようになり、切り札として登場した高速列車も、着地留置に対応しないため、思ったほど伸びなかったようで、鉄道での冷蔵輸送は、次第に衰退していきました。
国鉄が頻発した「ストライキ」も、大きなダメージを与えたと言います。
いくら断熱しているとは言え、限度があるのです。
現在は冷蔵コンテナが活躍しています。
電源を受けての冷蔵、冷凍コンテナも、あるそうですよ。
当時30歳。
「三十路だ~」って、ずいぶんいじられました。
この年は、サッカーワールドカップの日韓共催の年でしたね。
テレビ観戦でしたけどね。
記念切手は、随分売りました。
この年は、あまり大きな旅行には、行ってないようです。
その代わり、プレイステーション2を買って、「ぼくのなつやすみ2」を、随分やりこみました。
小学3年生の男の子になって、親から預けられた先の田舎暮らしを、1ヶ月間楽しむゲームです。
釣りができたり、虫取りをしたり、冒険があったり。
やってて楽しい、良質なゲームでした。
自分が出来なかった夏休みを、満喫できて♪
こんな本も、買ってね♪
職場にもやってる人がいて、話題になったりしました。
そう言えばこの頃、ジョギングをしていましたね。
走った時間に応じて飲酒ができる??なんてルールで、やってました。
パソコン周りは、ストレージを買ったり、フチなしプリンターを買ったり。
だいぶ整備しているようです。
職場でのExcel活用も、進めていましたが…、
苦労して作ったけど、結局使ってもらえなかった、って経験をしています。
時には入力まで代行しないと、使ってもらえないと思い知ったのは、この時でした。
当時の職場では、主任。
ですが、実際はこの頃から、精神的に病んでいました。
自分で自分を追い込む、よくないパターンです。
かなり、死も意識していました。
そして翌年、ある事態が起こります。
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